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158話のお話です *** 私の真新しい白いスーツはまだ体に馴染んでくれそうにない。今朝初めて袖を通したばかりで下したばかりの感触が残っている。朝の出勤前の最寄駅までの道ではその新しい感触が気持ち良いとさえ感じたのに、今では全く逆の、違和感だけが張り付いている。 それは彼を見たからだ。ナオの姿をこんなにも間近で見たから。 仕事用の一眼のカメラがやけに重い。携帯の機能に付属しているカメラも、私物のデジカメも計量化を目指してあんなにも軽いのに。重さで痺れてしまいそうだ。 プールサイドから水面へと降りる。波と一緒に飛び込んで上がる飛沫。第一泳者の面々のその中にナオは居る。左から4番目、マスクで顔が隠れる前にそれだけを確認して、目で追う。ヨーイ、と合図の声が聞こえてカメラを握り締める。テ、と開始の声が響いてシャッターを切る。ファインダー越しに見て、仕事だからとシャッターを押すも、身内が泳いでいるという事実だけでどこか贔屓目で視線が動いてしまう。 見逃せない場面なのに、一瞬だけと眼と閉じる。心の中だけで1、と数えて息を吸ってカメラを下した。左から4番目の黄色は少しずつ、遅れている差が開いていく。なにやってんのよあの馬鹿と出来ることなら今すぐに殴りに行きたい。体力だけがあんだの自慢なんでしょ、足引っ張ってどうすんのよ。 小さい声で、声にならない声で、がんばれ、と呟いてみた。誰にも聞こえない、私にすら届かない音で。
声だけが溺れてた
対岸にいる仲間で、ナオと同じ6隊の面々が叫んでいる。仕事が八割、私情が二割で隊員の顔はすべて把握している。レンズ越しに確認できたのは保校で同期の兵悟の顔で、叫んでいる。 人工的な波の音、同じような声援、それから私と同じこちら側で見ているお客様、こんなにも広い空間なのにそれだけ音が溢れている。私には言葉で届きはしない声援でも、それを受ける本人には届いている筈だ。カシャとシャッターを切るたびに出る音だけが、私の存在感をアピールしているようで、酷く遠い世界にいるようだ。 向こう岸の彼らと同じように叫べたら、と思った。こんなカメラ放り出して、いっそこのプールに投げ込んでしまって、気の済むまで叫べたら。 でも残念ながら私は大人になってしまった。仕事でこの場所に立っている。仕事中のナオの姿も見ることが出来た。私は私の役割をこなさなくてはいけない。彼は必死に黄色でオレンジの一員としてここにいるのだ。それなら私も。仕事を放棄することはしたくないので、せめて私情を挟むことだけは許してしまおう。 でもそれでも、と思う。新基地長の意図がまだ掴めない。マイナス30点、単純に6隊だけを計算してみても、どう考えても。ナオが入って、残れた6隊を消したくはなかった。きっとあの馬鹿は馬鹿だから自分を責めて泣くだろうから。 いま、私に出来ること。彼が壁に手をかけて、次の泳者が飛び込む瞬間にシャッターを押した。 (07.09.08 158話の武山家が職場で会っちゃったよ記念のもよもよ) (title.. 約30の嘘) |