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142話のお話です


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 電話が鳴った。ナオが海難現場から病院に搬送された、と連絡が入った。逸早い連絡に同じ海保に勤務していて良かったとも、どうして職場の電話で連絡が入るのかとも思った。よく言われる「心臓が止まる」という表現はきっとこういうことなのだろう。その数分間、だが実際にはたった数秒、私は本当に心臓が止まってしまったと思った。
 彼の所属している場所はそういう所だ。覚悟はしていた。いつかはこういうことがあると。それにしても早すぎて、覚悟はしていたつもりでしかなく、また記憶に新しい特救隊員の事故が頭をよぎった。
 行けと言った上司に感謝して、タクシーに飛び乗る。行き先を告げる。声が震えていた。どうして急いでいる時に限って赤ばかりなのだろう。青にならない信号を睨みつけ、それでもなにもお構いなしに動く左腕の秒針を睨んだ。
 電話が鳴る。私の握り締めていた右手の中で震えていた。過剰なくらい反応して慌てて通話ボタンを押すと上司の声。命に別状はない、と聞かされて言葉の意味が理解できず、ただただその言葉を頭の中で反復する。そこで初めて、私は息が出来た気がした。

 聞かされた病室の前まで来る、と病院の味気ない服を着せられた彼が見えた。もう意識はある、立っている、その事実に酷く安堵して名前を呼ぼうとした。だが、全く動かないのか動けないのか、立ち尽くしたままの姿に違和感を覚え、嫌でも耳に入る声に私も同じように彼と距離が開いたまま立ち尽くしてしまった。
 その病室から出てくる人がいる。仕事も含め私は知っているが、彼には私の面識はない。神兵と謳われるその人を私は知っている。ナオの所属する隊の隊長さん、そしてあまりにも有名な人。彼には見舞いに来た親族に映ったのだろう、会釈をして通り過ぎていった。その解釈は間違ってはいないが、会釈で返さなくてはと思い、そこで弾かれるように動いた身体に改めて動揺していたことに気付かされた。バタンと遅れた扉の音が響いた。いま、ここはとても静かだ。張り詰めた空気がまとわりついて気持ち悪い。扉の向こうではまだ、ナオは泣いている。聞こえなくてもそれは判った。その姿をいま、私に一番見せたくないことも判った。私たちは兄妹なのだから。




おかで待つ
さかなは乾涸びて




 一度、大きく息を吸い込んで、それからゆっくりと吐き出した。それでも張り付いた喉は変わらなかったけれども。ドアノブに手を掛けると兵悟の声が聞こえて、ああそうか、彼も同じ隊で彼も搬送されたのだと、今の今まで知らなかった事実のように思い出した。右手を回しそのまま押す。ゆっくりと開けるつもりが予想以上に大きな音を立てて、開いて、そして閉まった。
 視線が、痛い。きっと普段の私ならそう感じるだろう、感じたところで特に何もないのだが。目の前に座り込んでいる二人を除いて、ここにも、私が一方的に知っている人ばかりだ。カツカツとヒールの音が甲高く鳴った。誰もが無言で私を見て次の動きを待っている。座り込んだというよりも、へたり込んだといった方が正しい気がするナオに向かって、少し腰を折ってリーチを調節して、手を上げて、それを勢いつけて下ろした。握ってはいない手で下ろした。
「馬鹿ナオ!!なに泣いてるのよ!」
 挨拶も自己紹介もなにもかも飛ばして捲くし立てて、とりあえず頭を叩いた。変わらず視線は痛かった。手が出た後で、そもそも怪我人だからここに居て、私もここに居る事実は彼の姿を見てすっかりと抜け落ちてしまった。それよりも彼がこんなにも涙を流し、声を上げ、泣いている姿は初めて見た。私たちは生まれた時から一緒だったのに、初めて。それだけそこは望んでいた場所で、やっと行けた場所で、離れたくない場所なのだ。彼にとって、それほど。
「それぐらい意地でも治しなさいよ!!なに、泣いてるのよ!」
 海上保安官に私の一年遅れでなれた時も、潜水士になれた時も、特殊救難隊になれた時も、憧れの人と一緒の隊になれた時も、そのどれも一緒に喜んだのは私じゃないか。
「・・・スミレ・・・」
「あんたが馬鹿なのは当たり前でしょうが!だったら!」
 酷い顔で見上げられていた。その顔も初めて見た。私とそっくりな顔は涙でいっぱいで、でもそっくりだった。
「治せばいいことでしょ、それだけじゃない」
 散々声を張り上げたのに、無事で良かった、も大丈夫?も見舞いに来てかける言葉は何ひとつ言っていなかった。荒くなった私の息を落ち着かせるために呼吸をすると、何故か力が抜けてしまってその場所に座り込んだ。眼鏡を外して彼に押し付けるために出した筈のハンカチで押さえる。いつの間にか私は泣いてしまっていて、いつから泣き始めたのか判らなかった。
「・・・スミレ・・・ごめん・・・」
「なに謝ってんのよ!馬鹿ナオ!」
 化粧が崩れてしまった顔を押さえて、恐らく目の周りは黒くなっているだろう。鏡を覗き込むのが嫌になる。無事で良かった、も大丈夫?も声にするタイミングを逃してしまった。

 息を整えて落ち着かせて、すっと入っくる空気に頭が冷やされた気になった。もう一人の面識のある人に、彼が憧れて彼が巻き込んだ人に向き直る。
「兵悟、」
「え?」
「この馬鹿をここに残してあげて」
 いまここに居てくれて良かったと、都合の良い解釈で都合の良い願いをした。

 お騒がせしまして、の謝罪と一緒に自己紹介をしなくては、とベットの周りでただただ視線だけを投げかけている三人に向き直った。順番がおかしくなってしまい、その上酷い顔になってしまったけれども。私は眼鏡を掛けなおして立ち上がった。





(07.04.21 142話の感想なようなそうでないような)

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