「進さんコーヒー入ったよー、」

彼専用の青いラインの入ったマグカップを手に持って、もう片方の手にはコーヒーポット。私の赤いカップはまだ空っぽで、温めるためのお湯が張ってある。呼んだらすぐに迎えに来てくれる、いつもの彼ならば。だが、手渡すはずのそれはいまだ私の手にある。香りと一緒に湯気を上げている。

「進さん?」

返事が返ってこない。いつもと違う様子。ソファに座っていた筈の背中を振り返り、名前を呼ぶ。見えていた筈の黒色も、着ていた筈の黄緑もそこにはなく、ただ白いソファの裏側だけが見えていた。
仕方なくポットは残して、青色だけをそのまま手にし、反対側へと回り込む。そこには予想通りの姿の彼。

「進さーん」

再度呼んでも返事はなく。ただただ湯気はあがってゆくばかり。どうしても起こせそうにないその顔は、深く瞼が下ろされていた。




絵本の中のお姫さまは、




不意に頭に浮かんだ言葉に苦笑してしまう。それにあわせて青い中の黒い水面が揺れた。第一、お姫さまと彼とでは性別が違うではないか。規則正しい呼吸の音と上下する胸を見せて、ソファの上で小さくなっているお姫さま。



『ながい永い眠りから醒めました。』



続きの一説は当然こうだ。
だけど私のお姫さまはそんなことでは目を醒ましてはくれないでしょう。
(ううん、醒まさないで)
もう少しこのままでいたい、だなんて。声に出してしまえば、きっと安っぽい言葉に成り下がってしまうから。
彼の横に腰を下ろして、でもお姫さまのカップは持ったままで。片手のふさがったまま、黒い癖のある髪を掻きあげて撫でて。
そっと額に口付けを。

「……すき」


目覚めの口付けは本当の場所に。それまではまだ、醒まさないで。
まだ湯気のあるコーヒーに口づけて、それはとてもとても熱かった。





(06.12.22)

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