キュッと音を出して蛇口を捻る。備え付けの安っぽさが左右反転しているだけでこうも違って見えるのかと妙な感覚を覚えた。水の流れ出る音、に混じって湯気が立つ。触れて温度を確かめてから顔を上げると、鏡の中の曇った眼鏡と目が合った。バスタブに弾いて飛沫がさらに広がる。栓をしないままではそれは流れ出てしまう、という至極単純な事実に反して栓に繋がるチェーンを握ったまま動けない自分はなんなのだろう。
 目が合った。左右反転した世界の中に立って動けない自分と。左右反転したこの間取りを鏡にしても見慣れた景色にはならなかった。
「何してるのメグル」
 もっともな問いを背中に掛けられ鏡越しに振り向いた。鏡も眼鏡も曇っていてぼやけた視界が丁度良いとさえ思ってしまう。手を洗おうとして、その途中で特になにも考えなしにただ思いつきで風呂場に行って、そして蛇口を捻ったのだ。それも人の家で、勝手に。
「風呂に、入ろうかと思うて」
 鏡の中であきれた顔を作った彼の顔が見えた。霞んだレンズ越しにはっきり見えない彼の表情は容易に想像できてしまった。
「ここ、俺の部屋なんだけどな」
「じゃあ星野くんが入ればよかよ」
「・・・まあそれならいいけどさ」
 どうしてとかなんでとか疑問符ばかりが出てきては喉の奥でつかえて止まった。もどかしい。どのあたりが『それなら』でどの辺が『いいけど』に結びつくのか、いっその事怒られるとか笑い飛ばされるとか、それなら納得もできる。予想もできた。
「・・・星野くんは甘すぎる」
 それなのにあっさりと肯定されて、彼の返事にやっと通り抜けた言葉がそれで、鏡で確認すると彼は横を向いて音を上げてる火にかけてるやかんを見ていて、発した小さすぎる呟きはくぐもった声で湯気に混ざって聞かれなかったはずだと安堵した。
「うん、言わなくてもわかってるよ、」
 そこでやっと栓をした。一点にくるくると渦を巻いて吸い込まれていた流れは止まった。鏡から目を放した隙に彼はすぐそばまで来ていて、ドアに手を突いて立っていた。
「いつもは勝手気ままで我侭なメグルが何を思ったのか突然疲れた俺を労わろうと気を利かせて風呂を沸かしてくれたのだと思ってるよ」
 見下ろされてると気配で感じ、
「・・・星野くんはひどか」
 振り返るとクリアな視界で笑った顔と目が合った。




ひるがえる水滴と
    3センチメートル




 小さな水平線が近づいた。




(07.07.25)

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